ソウルの街・山歩き


by 1926723

アンジュングンへの死刑判決本文・理由の報道

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『満州日日新聞』掲載の判決主文と理由、以下の画像も同様。
画像部分をクリックすれば拡大され文字が大きくなり読めます。
事実関係の部分、記事画像はアップをしていないので判決理由の「記事」としては「抜けて」います。

アン・ジュングンの伊藤狙撃に対して漢詩を遺した幸徳秋水(後半のテキストから抜粋)
舎生取義 生をすてて義をとり
殺身成仁 身をころして仁をなす
安君一挙 安君の一挙
天地皆震 天地みなふるう

『日本政治裁判史録 明治・後』1969年 第一法規出版株式会社 我妻栄編集代表 
同書掲載「判決文」より、事実関係ではなく管轄の問題に関する理由の要旨を箇条書きします。(同書の判決文も「法律新聞」、外務省史料等を参照してのテキスト化で関東都督府地方法院が公判記録として作成した判決主文、理由からではありません)

判決理由

露国官憲は露国の裁判に附すべからざるものと決定
1905年十一月十七日締結の日韓協約第一条
「日本国政府は在東京外務省に由り今後韓国の外国に対する関係事務を監理指揮すへく日本国の外交代表者及領事は外国に於ける韓国の臣民及利益を保護すべし」とあり
光武三年九月十一日締結せられたる韓清通商条約第五款には韓国は清国内に於て治外法権を有することを明記
犯罪地逮捕地を管轄するハルビン帝国領事官は1899年法律第七号領事官の職務に関する法律の規定するところに従い本件被告らの犯罪を審判すめ権限あるものと謂わざる可らず然るに1908年法律五十二号三条には「満洲に駐在する領事館の管轄に属する刑事に関し国交上必要あるときは、外務大臣は関東都督府地方法院をして其裁判を為さしむることを得と規定しあり
外務大臣は十月二十七日本院に移す命令
其の命令は適法
本院が管轄権を有する明白

帝国臣民と同等、帝国刑法を適用処断するは協約の本旨

韓国法を適用すべからざるものと判定
帝国刑法第百九十九条 人を殺したる者は死刑

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旅順監獄で斃れた朝鮮の革命家アン・ジュングンとシン・チェホ
──そして幸徳秋水、夏目漱石──

昨年一一月、筆者はソウルにて開かれた「又観先生誕辰一一一周年、国民文化研究所創立六〇周年」を記念した「東アジア自由共同体の未来」(自由共同体研究会主催)ワークショップに発言者として招請された。又観はイ・ジョンギュ(李丁奎)の号である。一八九七年朝鮮に生れ、一九一六年に慶応大学予科に入る。日本を離れて独立運動に参加、エロシェンコや魯迅と交流があり中国において朝鮮無政府主義者連盟を兄と共に創設、日帝から逮捕され獄中生活も経験する。四五年の解放後は教育に携わり成均館大学の総長も経験する。六〇年四月革命時においては教員デモの先頭に立つ。
イ・ジョンギュは日本では全く知られていない。二〇世紀はじめ、東アジアの覇権を制しようとした日本帝国主義に抗して活動を担った朝鮮の革命家たちの多くは知られていない。
従来、諸々の歴史観で記述される社会運動史において欠落させられてきた人々の一端を紹介したい。アン・ジュングン(安重根)に関しても同時代の日本の社会主義や作家がどのような影響を受けたかほとんど論究されることもなく一〇〇年近くがたつ。
旅順監獄裏の発掘
二〇〇八年三月、韓国メディアのウェブサイト日本語版はハルビンで伊藤博文を射殺(一九〇九年一〇月二六日)したアン・ジュングン(安重根)に関する記事を三月前半から続けてアップした。韓国政府がアン・ジュングンの埋葬地点を探し遺骨発掘作業の許可を中国政府に申し入れている内容であった。

アン・ジュングンは一九一〇年三月二六日に大連の旅順監獄で処刑され、遺骨は監獄裏に埋葬されたが墓を建立することは日帝当局が認めなかった。そのため正確な埋葬地点が判らないまま今日まで至っている。  

近年、中国の地方行政が旅順刑務所の裏山一帯の再開発を進めていたことから韓国と朝鮮民主主義人民共和国の間で発掘の取組みに関して二〇〇五年に合議がなされ〇六年六月に共同の調査が実施された。

三月一六日付の記事はハルビン(中国黒竜江省)からの「事件」現場、旅順から「処刑」現場であり保存されている旅順監獄の様子を詳細に伝えている。
記者は「旅順監獄において、安重根義士が収監生活を送った監房の内部。安義士が使用した当時の筆記具と机、椅子、寝具などが整理されている。……旅順監獄に初めて来た人は、決まって西大門刑務所(独立公園)を連想する。アーチ型の狭い出入り口、赤レンガ、限りなく高い塀、抗日運動家が獄苦を味わった場所-といった点が似ている。」と報告、アン・ジュングンの生涯について中国語・英語・韓国語・日本語で説明されていることも記している。
「監房で自叙伝『安応七歴史』を書き上げ、思想を盛り込んだ『東洋平和論』の執筆に取り掛かったが、死刑執行が早まり完成させることができなかった」
「伊藤を殺害した行為は、韓国独立戦争の一部分だ。韓国義軍参謀総長としての資格に基づき、韓国の独立と東洋平和のために行ったことであり、《万国公法》に則って処理するようにせよ」と主張をしている。
またハルピンからは
「ハルビン市安升街にある朝鮮民族芸術館の一階には、〇六年七月にオープンした安重根記念館がある。広さ五〇〇平方メートルの同記念館は、安重根の胸像や手形、写真など三〇〇点余りの資料を展示している」と報告。
 
知られざる革命家シン・チェホ
アン・ジュングンの刑死から二六年後、もう一人の朝鮮の革命家シン・チェホ(申采浩)は一九三六年二月二一日、日帝の東アジアにおける侵略と支配に抗する活動の中で弾圧され旅順監獄にて五五歳で獄中病死した。
朝鮮史の研究者、故梶村秀樹がシン・チェホに触れた論文を遺している。(この二つは『梶村秀樹著作集』に未収)。 
「近代朝鮮史学史の系譜のなかで、最も重要な位置を占める歴史家であるといえる。日帝時代に生きた朝鮮人のなかで、今日、南朝鮮でも北朝鮮でもともに肯定的に評価されている人物は、当然のことながら非常に少ないが、申采浩がその数少ないうちの一人であることも偶然ではないだろう」と評価されていることに言及している。『近代朝鮮史学史論ノート』(六九年)。
『申采浩の啓蒙思想』(七七年)においても
「かれの写真を眺めていると、ふと中国の魯迅と日本の夏目漱石と朝鮮の申采浩という連想が浮んだ。……三人とも、ほぼ同じ世代の、状況と自己から目を離さなかった、ほんものの知識人である。



……人間的・思想的対比としてそれほど突飛でないような気がしている。いずれにしても、ほかの二人とくらべて、あまりにも不釣合いに、申采浩は日本では読まれていないというべきではないだろうか?」 





現在、シン・チェホの著作は歴史書一冊と短編小説、いくつかの詩の日本語への翻訳はあるが梶村の四〇年近く前の指摘、「ほかの二人とくらべて、あまりにも不釣合いに、申采浩は日本では読まれていない」という状況は今も変わっていない。
訳された著作は『朝鮮上古史』、短編『竜と竜の大激戦』であり、梶村以外にシン・チェホを論じた主な論文に「申采浩と民衆文学」金学鉉、「朝鮮革命宣言と申采浩」高峻石などがある。
一方、韓国では一九七〇年代に著作が『丹斎申采浩全集』としてまとめられ改訂を重ね三巻にまとめられている。丹斎は号である。近年は歴史に関する論文だけがクローズアップされナショナリズムを語る文脈の中でたびたび引用をされ民族主義者のイメージが固定化されている
しかし後半生のアナキズムの立場で活動したことに触れられることは少ない。
またキム・ウォンボン(金元鳳)が率いていた義烈団は宣言文起草をシン・チェホに依頼した。それが「朝鮮革命宣言」(一九二三年一月)である。(一九二〇年代から邦訳が複数ある)。

日帝に対する非妥協の闘争の意思が強かったシン・チェホは臨時政府イ・スンマンの腐敗に対する批判は強く臨時政府からは距離をおきアナキズムの立場で抗日武装闘争に加わった。

シン・チェホの生涯
シン・チェホの生涯を紹介する(『日本アナキズム運動人名事典』〇四年ぱる出版、筆者執筆項目より)。 
忠清南道大徳郡山内面於南里に一八八〇年一二月八日に生まれる。
歴史学者にして言論人。抗日革命思想家として独立運動、アナキズム運動の中心で活動。成均館に入校。一八九八年、独立協会に加入して活動、検挙され投獄。一九〇五年、成均館博士(教授の総称)を受けるが辞退し『皇城新聞』の論説記者として言論界に進出、筆致は鋭く一九〇五年『大韓毎日申報』の論説記者として招かれ「イ・スンシン(李舜臣)伝」「乙支文徳伝」「チェ・ドトン伝」など国家と民族の危機に対しかつて闘った名将の業績を著わす。『大韓毎日申報』に「読史新論」「小説家の趨勢」「帝国主義と民族主義」などを発表。一九一〇年中国、次いでウラジオストックに亡命。『海潮新聞』『青丘新聞』『勧業新聞』『大洋報』などの発行に参加しつつ抗日運動を続ける。上海で博達学院を開設、青年たちを教育。一九一四年白頭山、広開土大王陵などの旅行、貴重な経験となる。一九一五年、新韓革命団「新韓青年会」を組織するが歴史研究と文学的な創作に没頭する。一九一六年春、北京で中篇小説『夢空』を発表、独立運動を象徴的手法で劇化した、代表的な小説。その後北京で歴史研究に邁進。
「大韓独立宣言書」が国外の独立運動指導者三九名の名で発表され「戊午独立宣言」とも呼ばれる独立宣言に主要人物として参加。この宣言書は武力闘争が唯一の独立運動であることを宣言し、その点で二・八独立宣言や三・一独立宣言とは異なる。
一九一九年、上海において統合した臨時政府構成の論議に入りシン・チェホは議政院の全院委員長に推されるがイ・スンマン(李承晩)に対し「彼はない国まで売り払う…」と激しく反対し訣別。 北京に帰り、抗日運動に奮闘。一九二一年頃北京大学の中国人教授、アナキストのリ・シチユン(李石曽)との交際でアナキズムへの理解を深め幸徳秋水に共鳴した。
一九二四年独立運動の行動隊であった「多勿団」を指導し活躍。多勿団は、イフェヨン(李会栄)の甥であるイ・ギュジュン(李丁奎)が仲間とともに作った武装独立運動団体。「多勿」というのは、祖国の光復という意味である。シン・チェホは、この多勿団の組織と、宣言文を作成するにあたって支援。独立運動が民衆革命によりなせると判断、一九二四年北京で初めて結成された在中国朝鮮アナキズム者連盟の機関誌である『正義公報』に論説を載せアナキズム運動に傾く。一九二七年、南京で設立され日帝本国からも含めアジア各地域のアナキストが参加した東方無政府主義連盟に加入、機関誌である『奪還』『東方』にも中心的に関与し文章を掲載。また幸徳秋水を高く評価し『基督抹殺論』を漢訳、中国のアナキズム雑誌『晨報』に掲載。新幹会発起人としていも名を連ねる。
一九二八年四月、朝鮮のアナキストたちを中心とした東方連盟大会から本格的にアナキズム革命運動に参加。爆弾製造所設置の資金確保闘争の過程で台湾の基隆港で逮捕される。二年間にわたる裁判の後、懲役一〇年の判決を受け罪囚番号 四一一番をつけて旅順監獄に収監される。
裁判を報じる『東亜日報』には「その後日本無政府主義者幸徳秋水の著作一冊を読んで共鳴し、東方無政府主義者聯盟に加入した」と法廷での発言が掲載されている。(二九年一〇年七日付)
一九三一年逮捕前の草稿「朝鮮上古史」が『朝鮮日報』に連載される。

 『自由聯合新聞』三二号 一九二九年二月一日に弾圧記事が掲載された。紹介をする。

「太平洋沿岸の労働者による 東方無政府主義者連盟 日本官憲の迫害、支、鮮、臺の同志逮捕」 「暴壓と闘い同志を救え! 上海事件の断罪に抗議せよ!」日本官憲の迫害、支、鮮、臺の同志逮捕

我等の理想社会建設のための一切の闘争は、只に一地方に於て、部分的に行ひ成すことに止まることなく。常に我等と共に自由と平等の社会の建設のために努力を惜まざる、すべての、真実の意味に於ける解放運動の成員、及び、同一欲求に駆られてゐる極貧プロレタリアートの存在するすべての地方に於て、各自が、国家的感情や、国境精神に阻止されることなくして、各自が国境を乗り越ひて飽くまでも国際的に行はる可きものでなければならない。而して、我等の先駆者たちは常にそのための努力を続け、国内法の壓迫とも闘争して来たものである。それは独りヨーロッパの同志たちの手に由つて、インタナショナルの運動が継続され拡大されつゝあるのみならず、我が東アジアのアナーキスト同志の間にも、その緊密なる提携と共同的組織が必要とされつゝあり、その結成のための努力が払はれつゝあつたことを知ることが出来た。それは一九二一年、我が大杉栄氏が巧に国境を脱出して上海に到り、幾多の中国の同志たちと会見し協議せることに始まるものである。
そは、極端なる専制の下で呻吟しつゝある全東洋の被抑壓階級中の戦闘的分子を糾合して、東洋アナーキスト聯盟の組織することの必要を協議せるものであつた。かゝる歴史の下に、我が東方無政府主義者聯盟(O.A.F)は組織されたものである、と。
爆弾工場設置を理由に
提携切断が政府の魂胆
伝へられるところに由れば、同聯盟の有志によつて、北京郊外に爆弾工場が建設されドイツ及びロシアの二ヶ国より極めて優秀なる専門的技術家二名が招携されて爆弾を製造せることゝ、それに要する費用を調達するために、外国為替の偽造が行はれたと云ふ理由の下に、左の諸君が逮捕されるに至つたのである。
申釆浩、李響鉉、李鏡元(以上朝鮮)林柄文(臺 
湾)揚吉慶(中国)の五名が、日本官憲のために、日本、朝鮮、関東州、臺湾の各地に於て逮捕されるに至つたものである。而して、それらの諸君の起訴れた罪名なるものは、何れも治安維持法違反、殺人遺棄罪等によるものである。然しながら、我等は、日本政府が発表せる斯る理由をもつて鵜呑にそれを信ずるものではない。何故なれば、彼等支配者共が民衆とアナーキストとを離反せしめんがために常になしつゝある逆宣伝とひとしき事件の内容であるからである。それよりも先づ我等は支配者共が行はんとする誹謗の魂胆を見なければならない。それこそ、今や中国の民衆が、其の本来の中国人的思想よりして、一切の強権主義運動に冷淡であり戦争を憎悪し、軍閥と政治家の私利に基く一切の戦争に対して、極めて強き反感を持ちつゝある現在に於て、支那を中心とするアナーキストの国際的聯絡は、日本支配者共の、中国に対する一切の陰謀が暴露せられると共に、支那プロレタリアを搾取することの不可能な地位に突き落とれることを意味せるが故に、此問題も、日支プロレタリアの提携を阻止つゝある彼等の壓迫手段であると見ることを以て正当となすべきである今こそ日支プロレタリアの極めて緊密なる提携によつて、日本ブルヂヨアジーの憎むべき魂胆をけ散らすべきではなからうか



幸徳秋水とアン・ジュングン
シン・チェホに影響を与えた幸徳秋水はアン・ジュングンの伊藤狙撃に対して漢詩を遺している。
舎生取義
  殺身成仁
  安君一挙
  天地皆震
  生をすてて義をとり
  身をころして仁をなす
  安君の一挙
 天地みなふるう

(神崎清『革命伝説大逆事件の人々』第三巻「この闇黒裁判」(六九年)の記述から引用)。
同書の一五六頁全面はアン・ジュングンの肖像写真と秋水の漢詩を組み合わせた絵葉書の写真複写図版である。現物は明治学院大学図書館の沖野岩三郎文庫に所蔵されている。
神崎は「秋水の鋭敏な頭脳は、すでに日米戦争と日本の敗北を警告していた。ロシヤ革命と中国革命の成功を予言していた。この『安君一挙』の漢詩もまた、朝鮮民族独立の未来にささげられた文学的メッセージであった。朝鮮人は、日本帝国主義三十六年の圧制を非難する権利をもっている。が、それと同時に、非君主主義・非軍備主義をとなえ、朝鮮の侵略に反対しつづけて処刑された日本人革命家幸徳秋水の存在を忘れてはならないのである。」と記述している。


続けて神崎は「明治四十二年十一月十八日付けの『東京朝日新聞』によると、安重根は法廷で十五ヶ条にわたる伊藤総督暗殺の理由を訴えている。(十五ヶ条の項目が全文掲載)
項目を見ると、朝鮮半島における日本の帝国主義侵略と植民地主義支配の罪状が、マイクロ・フィルムのように複写されている。……朝鮮の安重根が処刑されて間もなく、日本の幸徳秋水が逮捕された。大逆事件の検挙が拡大していく嵐の中で、日韓併合が強行された。秋水のカバンから出てきたこの安重根の絵葉書は、大逆事件と日韓併合、日本の革命家と朝鮮独立運動のかかわりあいを、歴史的背景として描いているのである」と述べている。

漱石の『門』に描かれた伊藤博文射殺
四年前、韓国の漱石研究者であり作品の韓国語への翻訳者である金正勲さんと交流を得た。
金正勲さんの運営するサイトにおいて小説『門』に関連して意見交換をすすめ、前述の幸徳のアン・ジュングンを評価する「漢詩」とそれを掲載した絵葉書の存在を伝えた。
 金正勲さんは、『門』に描写されるアン・ジュングンの「事件」をテーマの一つとして「漱石の『門』に投影される国家イデオロギーの翳―冒頭場面と「罪」の問題をめぐって―」(「社会文学」第二三号、二〇〇六年二月、日本社会文学会)としてまとめた。
漱石は『門』において伊藤の死を登場人物の会話により描写している。

「どうして、まあ殺されたんでしょう」と御米は号外を見たとき、宗助に聞いたと同じ事をまた小六に向って聞いた。
「短銃をポンポン連発したのが命中したんです」と小六は正直に答えた。
「だけどさ。どうして、まあ殺されたんでしょう」
 小六は要領を得ないような顔をしている。宗助は落ちついた調子で、
「やっぱり運命だなあ」と云って、茶碗の茶を旨そうに飲んだ。御米はこれでもができなかったと見えて、
「どうしてまた満州などへ行ったんでしょう」と聞いた。
「本当にな」と宗助は腹が張って充分物足りた様子であった。
「何でも露西亜に秘密な用があったんだそうです」と小六が真面目な顔をして云った。御米は、
「そう。でも厭ねえ。殺されちゃ」と云った。
「おれみたいなような腰弁は、殺されちゃ厭だが、伊藤さんみたような人は、哈爾賓へ行って殺される方がいいんだよ」と宗助が始めて調子づいた口を利いた。
「あら、なぜ」
「なぜって伊藤さんは殺されたから、歴史的に偉い人になれるのさ。ただ死んで御覧、こうはいかないよ」
「なるほどそんなものかも知れないな」と小六は少し感服したようだったが、やがて、「とにかく満洲だの、哈爾賓だのって物騒な所ですね。僕は何だか危険なような心持がしてならない」と云った。
「そりゃ、色んな人が落ち合ってるからね」

金正勲さんは「漱石は朝鮮をどう思っていたのだろうか。このことは、私のような韓国の研究者には何より重要な問題である。が、同時に回避したい問題でもある。敏感に感じるところを正面から触れずには通れない苦痛のようなものが、そこに伴うからであろう。」として「漱石の矛盾は、個人的な問題を離れ、東西洋を見る観点に拘って考えると、西洋を見るのと東洋を見るのに不合理性が見出されるところにある。そして漱石と朝鮮を結びつけて考えれば、日本と朝鮮との関係において、朝鮮からの意識と視点を十分持ち得なかったところにある。特に漱石は、日本帝国の侵略が朝鮮や他の大陸を犯しつつあった時、同情はしていたものの、日本帝国の臣民の立場から脱皮できなく、植民地主義についての理解に乏しかったように見える」。としている。
さらに「……しかも物語の展開においても彼らの人物は、諧謔とユーモアに豊富な姿を見せていて、目をテクストから離せないよう読者を物語の深いところへ導いていくのだ」と論じている。

社会主義者の連帯「亜州和親会」
伊藤博文が殺される二年前、一九〇七年夏には東京にてインド、中国の活動家を中心にした「亜州和親会」が発足し安南、フィリピンの活動家も加わり会合、研究会には日本の社会主義者も参加、後に朝鮮の独立運動家も加わった。
その理念は中国の社会主義者、劉志培が同年一一月に執筆した「亜州現勢論」(『天義』一一・一二号合冊号に中国語で掲載)に著されている。
「私はさらにアジアの被圧迫民族に次の二つのことを望みたい。
一 同時に独立すること    
二 政府を設けないこと
独立後は無政府の制度を行ない、人民大同の思想を用いて、あるいはバクーニンの連邦主義を採用し、あるいはクロポトキンの自由連合の説を実行して、人民の幸福を永遠に維持できるようにしなければならない。これが被圧迫民族の人民が知らねばならぬことの二つである」としている。
アン・ジュングンが『東洋平和論』の執筆時に「亜州和親会」や「亜州現勢論」を認識していたかは定かではないが、東アジアにおいて日帝が侵略を拡大せんとする時期に民衆の側は日本の社会主義者も含めて東京にて連帯と帝国主義に対する闘いを模索していた。
そしてそれまで朝鮮侵略に対する見解があいまいであった日本の社会主義者たちは一九〇七年七月二一日に決議を発した。
『東京社会主義有志者決議』
「吾人は朝鮮人民の自由、独立、自治の権利を尊重し之に対する帝国主義的政策は万国平民階級共通の利益に反対するものと認む、故に日本政府は朝鮮の独立を保証すべき言責に忠実ならんことを望む」
この決議は直接行動派と議会政策派の両派の機関紙『大阪平民新聞』『社会新聞』に掲載された。

知られざる革命家ジョ・ソアン
日本政治史の研究者であるイ・キョンソクさんは『平民社における階級と民族』において、理論的に対立をしていた両派が同一に「決議」を行った背景にはアジアの革命家とくに朝鮮人活動家の存在が大きく、抗議と要求があったと論究、とくにジョ・ソアン(趙素昴)の活動に焦点をあて「亜州和親会」にも参加をした可能性が大きいとしている。
イ・キョンソクさんの同論文からジョ・ソアンの生涯を概観する。
一八八年生まれ。一九〇四年に日本留学し〇八年六月二六日に新橋を出て朝鮮に戻り九月三日に再び東京に来る。〇九年一二月、親日派の売国的行為に対して国民世論を喚起し宣言書を起草し掲載した『大韓興学報』は停刊処分を受けた。
一九一三年上海亡命、アジア連帯、無政府主義の実践とも見える行動を起こした。亡命動機に「亜細亜弱小民族反日大同党」の結成にあったとしている。
一六年にジョ・ソアンは再び上海に亡命「大同党」の結成を推進したが進捗せず、満州、沿海洲の朝鮮独立運動家との接触に奔走
後に「三均学会」がある。一九三〇年代に「三均主義」を理論化。それは「朝鮮の主要な左右合作、民族独立運動組織の運動指針として採択、韓国臨時政府の綱領ともなる」とジョ・ソアンの活動を記述している。

高知にて病気療養中の幸徳秋水は〇八年一月一日発行の『高知新聞』に「病間放語」を執筆した。 
「文明の日本、戦勝の日本、樺太を占領し、朝鮮の保護するの日本、三井と岩崎の日本においても革命はたしかに活ける問題なり」
「フィリッピン人・ベトナム人・朝鮮人中、また気概あり、学識ある革命家、けっしてすくなきにあらず。彼らの運動が単に一国の独立、一民族の団結以上にいでざるの間は その勢力や、はなはだ見るにたるなしといえども、もし東洋諸国の革命党にして、その眼中国家の別なく、人種の別なくただちに世界主義・社会主義の旗幟の下に大連合を形成するに至らんか、二〇世紀の東洋は実に革命の天地たらん」。
この幸徳の論文は「亜州現勢論」の影響を受けている。幸徳は故郷にてクロポトキンの『パンの略取』の翻訳を進めていた。

弾圧による社会主義活動の後退
しかしアジアにおける社会主義思想を軸にした東京での連帯活動は長くは続かなかった。〇八年一月の金曜会の講演会への弾圧、大杉栄、堺利彦らが実刑判決を受けた六月の「赤旗事件」で連帯は分断された。

さらに朝鮮侵略が本格化した二年後、アン・ジュングンの処刑の年に幸徳たちにかけられた大逆罪適用は日本の社会主義者たちを壊滅させる大弾圧であった。
その幸徳秋水を含め一二人が処刑された大逆罪弾圧からも二年後には百年を迎える。
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by 1926723 | 2009-02-14 16:33